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依存・畏敬の対象

なぜ今お話ししたような意味でいばる必要があるのか。民主的に言うとただただにこにこしているだけではなぜいけないのか。

リーダー(親・上司・教師など)は子供・部下・生徒から見て依存の対象であり畏敬の対象だからです。依存の対象、畏敬の対象がはっきりしている時、集団はまとまりやすい。烏合の衆にはなりにくい。「あなたがたが私のことを語り合っているところが教会です」とか「寺をつくるな、君たちが念仏を唱えているところが寺です」という教えはそのことを示唆しています。

自分個人が偉いからではなく、自分の役割がその集団になくてはならないものだから偉いのです。つまり権限と責任の質と量が仲間より重くかつ多いから、その役割は敬意の対象になるのです。それゆえ、グループの長は忘年会の時には悠々と上席に座ればよいし、挨拶のスピーチは当然のような顔をしていの一番に登壇すればよいのです。会議の成り行きが今一つの納得できない時は「次回にもう一度討論してから決めよう」と宣言すれば良いのです。

こういう決断をするときに大事なことは、仮に部下から優柔不断だとか権威的だとか不評を買っても「だからといって世が末というわけではない」「だからといってクビになるわけでもない」「だからといって私がだめリーダーと決まったわけではない」「一度でも不評を買ったら、他のすべてについても不評を買うと決まったわけではない」といった具合に、自分の心の中の文章記述を工夫することです。よく考えることが自衛の策です。

ところで人の依存や畏敬の対象になるポジションに座り続けるのは気の張る仕事です。自分自身は頼るものがないからです。それゆえ、リーダーは若干の孤独と不安に耐える能力が必要です。

リンカーンは個室にこもって考えていたそうですが、「己を恃むにしかず」(おのれをたのむにしかず)*人の力をあてにするな、自分の力をたのめの心境になれる方法を自分なりに開発するとよい。アメリカ人のように配偶者の智慧を借用するのもその一例です。日本では会社のことを家庭で話さない流儀の人が多いようですが、「配偶者はその仕事の門外漢であっても、当事者の自己盲点を突くようなアドバイスをすることが多い。