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今までの話を元に考えてみると、「自己責任」という言葉に歪みを感じる人がいる理由がわかる。「自己責任」の名のもとに、言い訳や責任逃れをすべて否定する態度が問題なのである。結果の中から、誰がやってもそうなったであろう部分を除くということをしない。別の言い方をすれば、その人の身になって考えるということをしない。

「結果責任」という言葉にも同じような臭いを感じる。「その人の行為によって結果が生じた」という事実だけを問題にし、その裏にある様々な事柄をすべて無視する。結果は様々な要因が絡み合って出るものである。決して一人の行為だけで出るものではないし、人間の行為だけで出るものでもない。もともと、責任とは行為に対して言うものであって、結果に対して言うものではない。

例えば、家に鍵をかけてなかったせいで泥棒に入られたとしよう。これは誰の責任か。これを「家に鍵をかけてなかったのが悪い」と言う人が増えている。もちろん、家に鍵をかけてなかったのは悪い。しかし、それ以上に、泥棒に入った方が悪い。家にあったものが無くなったという「結果」は、「鍵をかけずに家を出た」という行為と「泥棒が盗んだ」という行為の2つから来た結果である。

すると、次にこれらの行為が誰もがする当たり前のことかどうかという問題が出てくる。他人の家にあるものを盗むという行為は、当然、誰もがすることではない。それに対して、鍵をかけずに家を出るという行為は、いつもかけてないのは問題ではあるが、誰でもうっかりとかけずに出てしまうことはあり得る。これは完全に泥棒の責任であることに間違いはない。そして、鍵をかけなかったことに対する責任も少しはある。

しかし、泥棒の責任だとわかったところでどうなるのか。実際はどうにもならない。泥棒はどこかに逃げてしまっているからだ。そこで無理に他の人に責任を負わせようとするからトラブルになる。責任問題と対処は別だ。「泥棒の責任なのだが、泥棒はいない。さてどうしよう」という問題なのだ。

結果責任を「自分がやった事に対する結果を受け入れること」ととるなら、これは責任云々を言う前の当たり前のことだ。鍵をかけずに家を出たせいで泥棒に入られたという事実は変えようがないし、盗まれた物を返してもらおうにも泥棒が見つからないという事実も変えようがない。他の誰にも責任がないのに、無理に警察など他の人に責任をかぶせようとするから問題なのである。

日本人の歪んだ「責任」の感覚は、歪んだ「自由」の感覚と表裏一体である。自由は無いのが当たり前であり、何かをしないと「自由がある」という恩恵を得られないと思うから、「自由の代償としての責任」という考え方になる。「自由にさせてもらう」ことが、何だか当たり前のことではないように感じている。

そうではなく、人間はもともと自由である。そして、自由であるということそのものが責任なのである。ここに、日本流の「何かをしなければならない」という意味は含まれない。人間は自由に行動できて当たり前であり、いついかなる時でも、できる事は何でもできる。自由でない人は、「?しなければならない」という固定観念に縛られて、自分で自分の自由を奪っているのである。

人が自由に行動していれば、当然利害がぶつかることもある。そこでまずしなければならないのが、問題の整理と事実関係の把握である。これが「責任追及」である。ここで、各人が自分の思いでしたことと、自分とは無関係のことを明らかにする。その後で、明らかになった事実関係を元に対処法を考える。

問題の整理や把握をしないまま対処法から考えるのが、日本人の悪い癖である。とにかく見かけ上対処できれば良しとする。だから、「責任追及」が単なるスケープゴート探しになってしまう。そして、理屈に合う合わないではなく、一番簡単にできる対処法を実行しておしまいになる。それが本当に対処になっている必要すらなく、ただ「何かした」という事実だけでよしとする。だから、一番弱い人間がスケープゴートになって、そいつの首を切っておしまいになる。問題の根本原因が改善されないまま、同じことがいつまでたっても繰り返される。

「自己責任」「結果責任」というのは、スケープゴート探しの道具になってしまいがちである。これらの呪文を唱えておけば、特定の当事者以外に火の粉が降りかかる恐れはない。スケープゴートになってしまった人を除けば、まことにありがたい呪文である。

このせいで、人々は責任問題に敏感になってしまう。「出る杭は打たれる」から、出ないように気をつける。まともに議論がなされるのであれば、「自分のしたことにはきちんと責任を取れ」と言える。しかし、まともな議論がなされない場では、「責任を取る」と言ってしまうと関係ない責任まで全部押し付けられてしまう危険性がある。そんな場で「責任を取れ」と言うことこそ無責任な行為だ。

日本人の多くは、自分では「責任を取れ」と言うが、どうすれば責任を取ったことになるのかがよくわかっていない。そういう人たちには、自分が責任を取ることに対する恐怖がある。なぜ恐怖なのかというと、何をしたら責任を取ったことになるのかがわからないからだ。「責任を取る」と言ったが最後、何をしても「そんなのは責任を取ったうちに入らない」と言われるリスクがつきまとう。

自殺は、日本では一種の「責任の取り方」だと見なされている。そして、これに対しては「そんなのは責任を取ったうちに入らない」とは言われない(言われても本人の耳には入らない)。だから、このわかりやすい「責任を取る方法」に皆逃げたがる。そして、他の人はこれ幸いとその人にいろんな責任をかぶせてしまって、責任を取ったことにしてしまう。結局、そんな風に責任を取ったところで何になるというのか。結果として物事が良い方向へ向かわなければ、その責任の取り方は間違っている。

正しい責任の取り方を身に付けよう。自分のしたことを説明し、なぜ起きたかを明らかにする。これが正しい責任の取り方だ。そして、それで責任問題は終わりだ。

では、責任が明らかになった後はどうすればいいか。それはその人の自由だ。せっせと償いをしてもいいし、ケツをまくって逃げてもいいし、首を吊ってもいい。何でも、自分がしたいと思うことをすればよい。

自分の自由を受け入れられない人は、こういう場合に「償いをしなくてはならない」と考える。「ケツをまくって逃げる」という選択肢を思いつかない。もちろん、ケツをまくって逃げよと言っているわけではない。「償いをする」というのも自分の自由な選択によるものであるということを認識しろということだ。「償いをしなくてはならないからやった」というのは、自分の自由な選択が入っていないから、無責任な行為だ。本当の意味で自分の行為に責任を持てる人とは、ここで必ず償いの選択をする人のことではない。時には自分の判断でケツをまくって逃げられる人のことを言う。そして、逃げられるけど逃げないからこそ、責任ある行為なのだ。

もちろん、その結果どうなるかはまた別の話だ。信用を無くそうが、牢屋に放り込まれようが、それはその人のした自由な行為の結果であり、自己責任である。それを誰の責任にもせずただ結果として受け入れ、どうしたらいいかを考える。これが本当に自分で責任を取るということである。

結局、責任からは一生逃れられない。だが、自分のしたことの説明くらいは一生やり続けてもいいんじゃなかろうか。