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日本人には、「責任」と「義務」を混同してしまっている人がかなりいる。日本語の「責任」という言葉を和英辞書で調べると、英語ではduty,responsibility, accountabilityの3つの単語が書いてある。しかし、英英辞書で調べると、responsibility と accountabilityは互いに類義語となっているが、dutyだけは意味が異なる。dutyは「義務」であって、本来の「責任」ではない。

duty という単語は「やらなければならないことをやる」という意味である。「やらなければならないこと」とは社会や法や道徳が規定する。これらによって行動が縛られることがdutyである。例えば、「責任を果たす」という場合の「責任」である。普通dutyとは「義務」と訳される。「責任を果たす」を「義務を果たす」に言い替えても同じ意味である。

それに対して、responsibilityを辞書で引いてみると、そこに必ず「説明」という単語が入っていることがわかる(英和辞典では「責任」とだけしか書かれていないので、必ず英英辞典で調べること)。accountabilityという単語は、日本では「説明責任」と訳されて、普通の責任とは違った特別な「説明する責任」という意味に取られがちだ。しかし本来はどちらもほとんど同じ意味であり、同じものに対して説明という意味合いを強調しているだけに過ぎない。

本来、責任とは、それが自分の自由な行動の結果だということだ。単なる事実であり、それ以上の何者でもない。しかし、日本人は責任と義務をごっちゃにしてしまっている。そのせいで、本当に考えなければならない「どうすればいいか」という問題をきちんと考えられない場合が多い。これをどうしても責任の問題とリンクさせてしまう。結局、個人への罪のなすりつけ合いになってしまい、問題はうやむやになってしまう。

事実(=責任)と、それに対する対処(=義務)を分けて考えないから、こうなってしまう。まず責任を追及し、責任の所在がはっきりした後で改めて課すべき義務の量を考えるべきだ。日本では多くの場合、責任の話にすぐ義務の話がくっついてきてしまう。それで、「それは私がやったんじゃない」と「それは私がやった事だが、それに対してその義務は酷すぎる」という話がごっちゃになってしまう。「それは私がやった」と言うと何をされるかわかったもんじゃないから、意地でも「それは私がやったんじゃない」と言うようになってしまう。

理屈は関係なく、とにかく対処さえできれば問題ないという考え方をするから、とにかく誰かに義務を負わせて問題を終わりにさせようとする。そんな態度では、今回は対処できたとしても同じような問題がまた出てきてしまう。

まとめよう。責任とは自分の自由な行為の結果生じるものである。そして、責任問題とは、結果に対して誰の影響がどのくらいあるかを明らかにすることだ。そのため、各人は自分のした行為を説明して、自分のした選択が何なのかを明らかにする。「責任を取る」ということは、それが自分のした選択によるものであることを認めるということだ。謝罪したり辞職したり首を吊ったりすることではない。

自分の行為を説明することで、責任の所在が明らかになる。どんな決定がその人の自由でなされ、その後どんな出来事が発生してどんな結果になったかである。説明を受ける人は、その人が自由な決定をした時点でどんな状況にあったかを考え、その自由な決定がどのくらい正しかったか、あるいは間違っていたかを判断する。

もちろん、自由な行為では、つきつめると理由を説明できない部分がある。説明をすることで、どこから先が理由を説明できない部分、つまり自由な行為なのかがわかってくる。これによって、その人が自由にした行為がどこからどこまでなのかを確定させる。そして、その行為が本当にこの結果の原因となっているかを考える。

無責任とは、こうした説明をしないことではない。逆に、説明をいつまでもすることだ。言い訳や言い逃れである。自由意思のない人、ロボットのようにあらかじめ決められたプログラムを実行しているだけの人は、自分の行為をすべてプログラムのせいにできてしまう。念のため言っておくが、これは良い悪いの問題ではない。マニュアル通りの対応しかできないバイト店員は、基本的に無責任な存在であり、そういう人に責任を問うてはいけない。

逆に、言い訳や言い逃れを一切しないタイプも見受けられる。「すべては私の責任です」とだけ言って、説明を逃れようとする。これもまた良くない。本来その人の責任ではない部分にまで責任範囲が及んでしまうからである。これでは、事の真相が明らかにならないので、対処すべき事項が見えてこない。結果として、また同じことが発生し、別の人がまた責任を問われる。そして、悪しき前例があるので、またすべてがその人の責任になってしまう。これの繰り返しで、いつまで経っても良くならない。

事故が起きた時に「すべて私の責任です」とだけ言って終わらず、「カーブの見通しが悪かった」とか「暗くて見えなかった」などと言うべきだ。そうすれば、カーブミラーや街灯がつくかもしれない。それをしないから、また別の人が同じ所で同じような事故を起こす。

責任追及とは、誰かに罪をなすりつけて安心することではない。実際に起きた結果から、当人が自由に選んだ行為の結果であるものと、誰がやっても同じようになったであろうことの区別をつけることだ。当人が自由に選んだ行為に対しては、今度はその行為を選ばないようにすれば二度と起きない。そして、誰がやっても同じようになったであろう問題に対しては、その問題を取り除くことで二度と起きないように対処する。

最近は「説明責任」などという言葉が出来てしまったため、あたかも「説明する責任」(日本では実際は「説明する義務」になってしまっている)という特別の責任が存在するかのように思っている人がいる。そうではなく、今まで述べたように、責任と説明はもともと深く関わり合っている。責任を説明することは自分の責任範囲を狭めることになるのだから、本来は誰もが説明したいと思うはずなのである。

問題は、説明に対して「言い訳」「責任逃れ」と言って非難することである。もともと、説明とは言い訳や責任逃れのためのものである。正当な言い訳や責任逃れは正しく受け取って、その人のものではない責任は取り除かなければならない。それをしないから、誰も説明をしなくなってしまうのだ。

正当な言い訳は重要だ。ここには、二度と同じことを起こさないようにするためのヒントが眠っている。