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「ねばならない」思考からの解放

「ねばならない」(あるいは「べきである」)と「である」をなるべく使わない文章記述にすること。

まず、「ねばならない」「べきである」は悩む人が持つ文章記述に圧倒的に多い。そしてこの文章は人生の事実を無視して、願望を述べているのにすぎないのが特徴です。願望を百万回唱えたところで、事実が変わるわけではない。

たとえば、「妻は食事と育児に専念すべきである」「上司は部下に尊敬されうべきである」「部下は上司を尊敬するべきである」「上司は部下やさしく接するべきである」などと永遠の真理を説くような言い方をするので、これが悩みのもとになるのである。今の時代は大部分が「・・・・であるにこしたことはい」というぐらいに思ったほうが良い。

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人を拒否すべきではない

この考え方にとらわれて人生を不幸にしている人が少なくない。たとえば断れないことはなかったのに、断ると悪いと思って結婚したとか、つきあい上断りきれずに保証人になったばかりに、人の後始末のために生きる人生になったとか。

日本人はお互いに甘え合うことを是認しているので、人がこちらに甘えてきたのを拒否すると、自分も人に甘えられなくなり、その結果、世間さまと付き合いの絆が切断されるような不安におそわれる。それゆえ、多くの人は幼少期から「人を拒否すべきではない」という考えを受けつけられてきたのである。しかし、よくよく考えてみると、この考え方は人生の事実に則しているとは言えない。というのは拒否のない人生はないからである。

拒否のない人生はない

人生とは何か。行動選択のプロセスのことである。つまり自分で何を食べ、どこで学び、どこで働くかなどを決定していくプロセスである。それゆえ、人に職を提供してもらい、学校・職場につてで入れてもらい、人のあてがってくれた配偶者と暮らすというのは人生を生きていることにはならない。失敗してもよいから、自分が自分の主人公として行動の選択を決定していくのが人生ではないだろうか。一言で言うならば、「生きるとは行動を選択すること」。

さて行動を選択するとは、残りのすべてを切り捨てろということです。たとえば、ある会社に就職するということは、他のすべての会社を拒否することである。ある異性と結婚するということは、他のすべての異性を配偶者としては拒否するということである。拒否される側のことを考えると気の毒で、「断るに断れない」「断るべきではない」と思いがちであるが、私たちは全能の神ではないので、してあげたくてもしてあげられないことがあるという人生の事実、あるいは自分の能力の限界を甘受した方がよい。
拒否された側から恨みを買うかもしれないがそれはやむを得ない。道を歩くとき知らぬままに、小虫を踏みつぶさずには歩けないのと似ています。拒否しない方が相手に快感を与えるとは思うが、それが自分の限界を超えている時はやはり断る方が良い。その気があるような顔をして、土壇場になってから断るよりずっと人を傷つけないですむ。

あれもこれもスタイルで愛想をふりまきすぎると、「優等生のくたびれ型」になる。つまり、素直と従順(非拒否)が限界に達すると突然、学校や親や交友関係、職場を拒否して、自分のありたいようなあり方を模索せずにはいられなくなる。

つまり拒否する人間は、冷たい人間であるという以上の意味がある。拒否することによって、自分は何をしたいのか、何を言いたいのかがはっきりしてくる。たとえば中高生が親を拒否するのは(いわゆる第二反抗期)、それによって自分とは何かをつかむ作業をしているのです。第二反抗期をあいまいに過ごしたヤングアダルトの中には、個性の弱い、あたりさわりのない、若年寄のような人間が少なくないのはそのせいではないか。