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哲学の必要性

はじめに

はたち前後の頃私は、哲学という学問は対して物の役に立ちそうにもないと思っていました。しかし、専攻した授業の中で必須だったので、仕方なく出席していましたが、こんな学問に深入りすればだんだん頭が悪くなると思っていました。それはあるかないかの論証のしようもないことを、あるとかないとか理屈をこねているだけではないのかとの思いがあったからです。

ところがそのうちに考えが変わってきたのです。確かにあるとかないとか論議しても、実証のしようがないけども、この実証のしようもないことを、自分なりに決断しておかないと、人生で動きようがないことに気づきだしたからです。

たとえば、多くの心理学者は心理テストで人間の知能や性格や学力や態度を測定しています。測定してはたして人間の実態がつかめるのかと問うと、この世の中で究極的に存在しているものは量である。量として存在している限り測定できるはずであると答える。神に対する信仰ですら量として存在しているから、信仰の度合いを心理テストで測定しよう思えばできるのだという。(統計的に)

ところが、究極的に存在しているものは量であることを、どうして知っているのか、すべてのものは量として存在していることを実証してくれ、と言うと、それはできないと答える。科学なら実証できるが、哲学はそうはいかないからです。

つまり哲学とは私たちの言動の大前提のことです。大前提は論証を超えている。論証を超えているとは、誰の言っていることが本当なのか証明のしようもないことです。平たく言えば、哲学とは十人十色ということになります。それゆえに、ある人は究極的に存在しているものは神であると言い、他の人はいやそうではない、究極的に存在しているものは無であるという。ところが第三の人は、いや神でもないし無でもない、究極的に存在しているものは五感で認識できる経験の世界であると主張する。神か無か経験か、どれが本当か。誰も知らない。

こう考えると哲学というのは頼りないものです。ところが頼りないものではあるが、それを自分なりに定めておかないと、ものも言えず行為も選べないのです。

この理屈は私子供を育てる親に哲学が定まっていなければ、気まぐれな育児になってしまう。会社を経営する社長に哲学がなければ、社員は慢性の不安定感につきまとわれる。夫や妻に結婚に関する哲学がなければ、些細な決断をする都度「どうしたらよいか」と迷うばかりになる。青年に哲学がなければ、どんな人生コースを選べばよいのかの決断がつかず、いつまでもぶらぶらする。つまり*1モラトリアム人間から脱却できない。

*1:年齢では大人の仲間入りをするべき時に達していながら、精神的にはまだ自己形成の途上にあり、大人社会に同化できずにいる人間。


 

哲学の任務

では哲学を持つとはどういうことなのか。一言で言うと頭を使うということです。「あるがままに」とか「今、ここ」とか「自然法爾」(じねんほうに)「他力主義、受身主義、」
などと簡単に思い込まないことです。なぜ、あるがままが良いのか。何故今ここなのか。なぜ、他力、受け身でよいのか。要するに考えることです。不言実行!とばかり先走りしないことです。よく考えて、自分の大前提を意識したうえで動くのが良い。

では何を考えるとよいのか。考えるべき人生の一大事とは何なのか。それは三つある。

ひとつは、この人生で究極的に存在しているのは何だと自分は思っているのか、である。永遠不滅の神なのか、永遠不滅の自然界の法則なのか、ケース・バイ・ケースの経験なのか。あるいは一切は空なのか。人には様々の考えがある。自分はどうなのか。少なくとも自分はどう思っているのか。とりあえずの考えでもよいから定めておっかないと、何をするにも度胸が定まらない。

考えるべき第二のことは、「人生とは・・・・である」とわけしり顔にいう自分は、何を持って「知った」と宣言しているのか。それを自問自答することである。万巻の書籍を読んで知ったのですと言うのなら、万巻の書に書いてあることが間違いないということをどうして知っているのか。もし、私の人生体験からわかったのですというのなら、自分の体験に普遍性があるということがなぜいえるのか、を自問自答することである。

要するに「知っている」と「わかった」といっても、その意味を自覚していないと慢心に陥ることになる。

考えるべき第三のことは、この人生で何が善で何が悪か、つまり私たちはどう生きるべきか、何をなすべきか、あるいはなすべきではないか。それを考えることです。自分個人にとって意味のある行動をとるのが善であるとか、人を喜ばせるために自分を殺しているぶりっ子や若年寄は善とは言えないなど、人さまざま価値観がある。

さて、自分はどうするか。人が結婚するから自分もする、人がああやっているから、俺もこうする程度の生き方でよいのか。こんな考え方でこれからもやっていくのか、などと考えることです。

要するに哲学を持つとは、考えることである。人さんに洗脳されたままで生きてはならないということです。自分が意識して一挙手一投足を選ぶこと、これが哲学を持つということなのです。

ある悩みにいつまでもこだわって人生が今ひとつ楽しくないときには、自分はいったいどういう哲学(大前提)の持ちかを検討するとよい。
出来事そのものよりも、受け止め方が大切

人間の悩みというのは、ある出来事そのものが原因ではなく、その出来事をどう受け止めるかが原因である。

たとえば、ある学生が単位不足で卒業延期になった(出来事)。そして落ち込んだ(結果)。するといかにも出来事そのものが落ち込ませたように見える。しかし、本当はそうではない。「大学は四年で卒業すべきである」とか「卒業延期は人生の失敗者である」などという考え方、あるいは受け取り方、あるいはビリーフ(受けとめ方、考え方・Belief)があるから落ち込んでいるのである。「留年を機会に英会話をものにしたらもとではとれる」とか「留年すれば友達が増える」あるいは「留年したおかげで都会生活があと1年楽しめる」とか考える学生はたぶんそれほど落ち込まないはずである。

思考とは心の中の文章記述である。だから悩みがあるときは、悩みを生み出しているビリーフを発見することである。思考タイプの人、感情タイプの人という言葉があるので、いかにも思考と感情は相互に独立して別物のように思いがちである。しかし、そうではない。悲しい、不快、腹立たしい、いらいら、絶望感、ゆううつと言った感情は、当人が何らかの文章記述をはっきりと意識してはいないが心の中で唱えているから生じているのである。

先日も久しぶりに路上で出会った学生が「ぼくデイトのあとすごく疲れるんですが」という。君、心のなかでどんな文章を唱えているんだ?と聞くと、ちょっと考えてから彼は答えた。「私は彼女に好かれなければならない。嫌われたら困る」と。「じゃあ、君はどうしたら彼女に好かれると思うんだ?」
「彼女に話を合わせれば彼女は私を好いてくれるはずだ」というのが彼の文書記述であった。「そうかなあ。僕は違う考えだ。君ねえ、女性というものは自分の意見を持っている男性を頼もしく思うほうが多いよ。君は終生、その彼女のしもべになる覚悟はできているのか?」と言ったら、彼は考えてみますといって下を向いて去っていった。

こんな具合に潜在意識にある文章記述は比較的思いだしやすいものです。


 

「ねばならない」思考からの解放

「ねばならない」(あるいは「べきである」)と「である」をなるべく使わない文章記述にすること。

まず、「ねばならない」「べきである」は悩む人が持つ文章記述に圧倒的に多い。そしてこの文章は人生の事実を無視して、願望を述べているのにすぎないのが特徴です。願望を百万回唱えたところで、事実が変わるわけではない。

たとえば、「妻は食事と育児に専念すべきである」「上司は部下に尊敬されうべきである」「部下は上司を尊敬するべきである」「上司は部下やさしく接するべきである」などと永遠の真理を説くような言い方をするので、これが悩みのもとになるのである。今の時代は大部分が「・・・・であるにこしたことはい」というぐらいに思ったほうが良い。

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人を拒否すべきではない

この考え方にとらわれて人生を不幸にしている人が少なくない。たとえば断れないことはなかったのに、断ると悪いと思って結婚したとか、つきあい上断りきれずに保証人になったばかりに、人の後始末のために生きる人生になったとか。

日本人はお互いに甘え合うことを是認しているので、人がこちらに甘えてきたのを拒否すると、自分も人に甘えられなくなり、その結果、世間さまと付き合いの絆が切断されるような不安におそわれる。それゆえ、多くの人は幼少期から「人を拒否すべきではない」という考えを受けつけられてきたのである。しかし、よくよく考えてみると、この考え方は人生の事実に則しているとは言えない。というのは拒否のない人生はないからである。

拒否のない人生はない

人生とは何か。行動選択のプロセスのことである。つまり自分で何を食べ、どこで学び、どこで働くかなどを決定していくプロセスである。それゆえ、人に職を提供してもらい、学校・職場につてで入れてもらい、人のあてがってくれた配偶者と暮らすというのは人生を生きていることにはならない。失敗してもよいから、自分が自分の主人公として行動の選択を決定していくのが人生ではないだろうか。一言で言うならば、「生きるとは行動を選択すること」。

さて行動を選択するとは、残りのすべてを切り捨てろということです。たとえば、ある会社に就職するということは、他のすべての会社を拒否することである。ある異性と結婚するということは、他のすべての異性を配偶者としては拒否するということである。拒否される側のことを考えると気の毒で、「断るに断れない」「断るべきではない」と思いがちであるが、私たちは全能の神ではないので、してあげたくてもしてあげられないことがあるという人生の事実、あるいは自分の能力の限界を甘受した方がよい。
拒否された側から恨みを買うかもしれないがそれはやむを得ない。道を歩くとき知らぬままに、小虫を踏みつぶさずには歩けないのと似ています。拒否しない方が相手に快感を与えるとは思うが、それが自分の限界を超えている時はやはり断る方が良い。その気があるような顔をして、土壇場になってから断るよりずっと人を傷つけないですむ。

あれもこれもスタイルで愛想をふりまきすぎると、「優等生のくたびれ型」になる。つまり、素直と従順(非拒否)が限界に達すると突然、学校や親や交友関係、職場を拒否して、自分のありたいようなあり方を模索せずにはいられなくなる。

つまり拒否する人間は、冷たい人間であるという以上の意味がある。拒否することによって、自分は何をしたいのか、何を言いたいのかがはっきりしてくる。たとえば中高生が親を拒否するのは(いわゆる第二反抗期)、それによって自分とは何かをつかむ作業をしているのです。第二反抗期をあいまいに過ごしたヤングアダルトの中には、個性の弱い、あたりさわりのない、若年寄のような人間が少なくないのはそのせいではないか。