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哲学の任務

では哲学を持つとはどういうことなのか。一言で言うと頭を使うということです。「あるがままに」とか「今、ここ」とか「自然法爾」(じねんほうに)「他力主義、受身主義、」
などと簡単に思い込まないことです。なぜ、あるがままが良いのか。何故今ここなのか。なぜ、他力、受け身でよいのか。要するに考えることです。不言実行!とばかり先走りしないことです。よく考えて、自分の大前提を意識したうえで動くのが良い。

では何を考えるとよいのか。考えるべき人生の一大事とは何なのか。それは三つある。

ひとつは、この人生で究極的に存在しているのは何だと自分は思っているのか、である。永遠不滅の神なのか、永遠不滅の自然界の法則なのか、ケース・バイ・ケースの経験なのか。あるいは一切は空なのか。人には様々の考えがある。自分はどうなのか。少なくとも自分はどう思っているのか。とりあえずの考えでもよいから定めておっかないと、何をするにも度胸が定まらない。

考えるべき第二のことは、「人生とは・・・・である」とわけしり顔にいう自分は、何を持って「知った」と宣言しているのか。それを自問自答することである。万巻の書籍を読んで知ったのですと言うのなら、万巻の書に書いてあることが間違いないということをどうして知っているのか。もし、私の人生体験からわかったのですというのなら、自分の体験に普遍性があるということがなぜいえるのか、を自問自答することである。

要するに「知っている」と「わかった」といっても、その意味を自覚していないと慢心に陥ることになる。

考えるべき第三のことは、この人生で何が善で何が悪か、つまり私たちはどう生きるべきか、何をなすべきか、あるいはなすべきではないか。それを考えることです。自分個人にとって意味のある行動をとるのが善であるとか、人を喜ばせるために自分を殺しているぶりっ子や若年寄は善とは言えないなど、人さまざま価値観がある。

さて、自分はどうするか。人が結婚するから自分もする、人がああやっているから、俺もこうする程度の生き方でよいのか。こんな考え方でこれからもやっていくのか、などと考えることです。

要するに哲学を持つとは、考えることである。人さんに洗脳されたままで生きてはならないということです。自分が意識して一挙手一投足を選ぶこと、これが哲学を持つということなのです。

ある悩みにいつまでもこだわって人生が今ひとつ楽しくないときには、自分はいったいどういう哲学(大前提)の持ちかを検討するとよい。
出来事そのものよりも、受け止め方が大切

人間の悩みというのは、ある出来事そのものが原因ではなく、その出来事をどう受け止めるかが原因である。

たとえば、ある学生が単位不足で卒業延期になった(出来事)。そして落ち込んだ(結果)。するといかにも出来事そのものが落ち込ませたように見える。しかし、本当はそうではない。「大学は四年で卒業すべきである」とか「卒業延期は人生の失敗者である」などという考え方、あるいは受け取り方、あるいはビリーフ(受けとめ方、考え方・Belief)があるから落ち込んでいるのである。「留年を機会に英会話をものにしたらもとではとれる」とか「留年すれば友達が増える」あるいは「留年したおかげで都会生活があと1年楽しめる」とか考える学生はたぶんそれほど落ち込まないはずである。

思考とは心の中の文章記述である。だから悩みがあるときは、悩みを生み出しているビリーフを発見することである。思考タイプの人、感情タイプの人という言葉があるので、いかにも思考と感情は相互に独立して別物のように思いがちである。しかし、そうではない。悲しい、不快、腹立たしい、いらいら、絶望感、ゆううつと言った感情は、当人が何らかの文章記述をはっきりと意識してはいないが心の中で唱えているから生じているのである。

先日も久しぶりに路上で出会った学生が「ぼくデイトのあとすごく疲れるんですが」という。君、心のなかでどんな文章を唱えているんだ?と聞くと、ちょっと考えてから彼は答えた。「私は彼女に好かれなければならない。嫌われたら困る」と。「じゃあ、君はどうしたら彼女に好かれると思うんだ?」
「彼女に話を合わせれば彼女は私を好いてくれるはずだ」というのが彼の文書記述であった。「そうかなあ。僕は違う考えだ。君ねえ、女性というものは自分の意見を持っている男性を頼もしく思うほうが多いよ。君は終生、その彼女のしもべになる覚悟はできているのか?」と言ったら、彼は考えてみますといって下を向いて去っていった。

こんな具合に潜在意識にある文章記述は比較的思いだしやすいものです。