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なぜ「即答力」が必要なのか

私が10代の時にアメリカへ行ったことはお話ししていると思いますが、その時アメリカの文化の中では、発言しない、何もしないということは、コミット(約束・関与・決意・意志)しないということでした。

しかし、当時の私はまだ若く何も知らないし英語もうまくはなかった。コミュニケーションのやり方も知らなかった。そもそも日本的な甘えた感覚しかもっていなかったので、いつも「待ちの姿勢」でいました。
何かの集まりに参加するなら、誰かに呼ばれないとはじまらない、と信じていました。誘ってくれる人をじっと待っていたのでした。チャンスが仮にあるなら、ある日誰かがやってきて、手を引っ張ってもらえるはずだと思っていました。
アメリカでは、そんな私を気にかけてくれるひと、「どうしたの?」と連れ出してくれる人は、残念ながらいませんでした。泣きながら歩いている幼い迷子なら、親切な人が声をかけてくれたでしょう。

ある時私は考えました。

  • 自分はなぜこんなふうに、何に対してもコミットできないのか
  • チャンスに出会えないし前に進めない。なぜ次の新しい景色が見えないのか
  • 自分なりに考え、意見したいこともあるけれど、なぜ発言の場や機会がないのか

考えて、考えて、考えた挙げ句に、私はようやく気がつきました。

私がかつて居たアメリカという国や諸外国では、仕事に限らず、コミュニケーションにおける様々な場面で、例えて言うなら“野球の試合”みたいなものが行われているのだと。その試合にはだれでも参加できて、参加する・参加しないは個人の自由。参加にはただ「やりたい!」と入っていければいいだけです。
それなのに、うずくまったままその場に入っていかない自分がいたと気がついたのです。

ここでお話しした“試合に参加する”とは社会人やヒトにコミットするということです。
コミットすればチャンスはいくらでもあり、新しい世界が広がります。試合に参加してプレイすれば、自分の意見を述べることもできるし人の意見も聞くこともできるのです。
逆に言えば、試合に出ないと人とのかかわりはいつまでたっても薄いし、実感として自分が得るものも少なくなります。あくまでも観客でしかなく、ささやかな達成感すら、得ることはないのです。

それから、私はやがて、「待ちの体勢」で居た自分の殻を破り、自ら人に関わり、いろいろな試合に“参加する”ようになりました。すると、アメリカでは、コミュニケーションの一つとして、誰に対しても広くチャンスが与えられるということが分かりました。
思いがけない人から「頑張れ」と声をかけられたり、「やってみれば」と勧められたり。

それは私が優秀だったわけでも、運が良かったわけでもないのです。
「あなただから」と選ばれるわけでもなく「あなたが駄目」と拒絶されるわけでもない。
先ず自分から発言し、心を開き、コミットして、“試合”に参加する。参加すれば誰にでも声はかかるし、誘われるし、チャンスが巡ってくる、そういう仕組みだったのです。

チャンスをつかむかどうかは、ふと自分に声をかけてもらった時、「即答」できるかどうか。すなわち、「こんなことがあるけど、やってみないか?」と言われた時に、イエスかノーかを真っ先に「僕がやります!」と手を挙げること。
瞬時に判断し、即答できるかどうかが、チャンスをつかむための別れ道です。

即答する姿勢が世界を変える

即答とは姿勢です。
人に対してであれば、「あなたに興味がある」とか「貴方を尊敬している」とか、「あなたの話をもっと聞きたい」という姿勢。

即答する姿勢とは、相手の目を良く見る感じに近いのかもしれません。さらに言えば、まなざしだけでも答えになることが、この世にはたくさんあるのです。
相手の話を、じっと目を見ながらしっかりと聞く。この姿勢だけで、「あなたに対して真剣に向き合います」という答えを提供していることになります。

言葉が違い、文化が違い、習慣が違う人たちとコミュニケーションをとっていかねばならないグローバル時代にはいっそう大切な姿勢ではないでしょうか。
「万国共通のコミュニケーションの基本姿勢こそ即答力」といっていいほどです。