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部下を育てる

カウンセリングの心理学の各論の一つにキャリア心理学(職業心理学)がある。この分野では職場は学校であると考える。ある職場で働いているうちに、それまで気づかなかった自分の能力や興味に気づいて、これを充足したくなる。そこで次の職場あるいは職種に移りたくなる。

すなわち、学校と同じように職場にも卒業がある、とキャリア心理学では考える。そうなると、職場の長は教育者と言うことになる。部下を育てる能力が管理職には不可欠である。
企業の目標を達成しつつ、一方では部下の一人ひとりを育てるという個人尊重の姿勢を管理職は持たなければならない。と最近の企業人も考えるようになった。

その理由は三つある。

まず第一には、個人主義が若い世代の常識になりつつあるからである。マイホーム主義
第二は、新世代の知識レベルがアップしたからである。無条件・無批判の服従を部下に期待できない時代である。
第三は、権利意識が明確になってきたからである。

それゆえに社員が企業にサービスするだけでなく、企業も社員にサービスするのでなければ企業は成長しない時代になったといえる。ひと頃、バブル期は企業が社員になしうるサービスは保養所や海外旅行であったが、これからは職業的・人間的に足しになる教育体験がその職場で得られるか、と言うのがサービスの内容になるのではないかと思われる。なぜなら、このタイトルのテーマを管理職研修にしている企業が増えてきているからである。

心の自由と行動の自由

部下を育てるとはどういうことか。答えがひとつというわけではないので一概には言えないが、カウンセリング理論の立場からすれば、それは、人生で遭遇するさまざまな問題に、その都度自分で上手に対処していける人をつくる、言うことである。ひとことで言うと、自律(自分でコントロールすること)の人を育てるということになる。では、自律の人とは何か。自分の行動を選ぶことの連続である。自律の人と言うのは、自分で自分の行動を選べる人のことである。

では自律のない状態とはどういうことか。子供の例を挙げよう。子供の心理療法に遊戯療法というのがある。子供は悩み事を言葉で言えないものだから、遊ばせて、遊びの中で気持ちを表現させるというものである。遊び道具を置いた部屋に子どもを入れると、「これで遊んでいい?」と、いちいち聞いてくる子供がいる。「ここにあるものは何でも使っていいんだよ。みんなはここ50分一緒に過ごせるんだ。50分の間、したいようにすればいいんだよ」と初めに言ってあるのに、「このお人形で遊んでもいいか」などといちいち聞いてくる。これは自分の行動を自分で選べない状態である。そういう子どもも治ってくると平気でいろいろなものを持ってきて、組み立てたり遊んだりするようになる。

大人でも同じことが言える。新入社員の場合には、「ああしろ、こうしろ」と言わないとボサッとしている人がいる。「指示待ち人間」というが、物理的には自由にできる状態にあるのに、自由にやれないのはなぜか。ひとつは、心の中に規制がある場合である。「人を怒らせてはならない」「人に気に入られなければならない」というような心の中で自分を縛るものがある場合、その人にはフリーダム心の自由がないという。

ところが、心の中にも何も縛るものがない自由な人でも、アメリカなどへ連れていくと、どういう風にしたらよいのかわからないので、やはりじっとしている。この場合には、リバティー行動の自由がないという。つまり、身の処し方を知らない場合である。ご飯を食べているときに、ちょっと座をはずしたいが、座をはずす時どうやったらいいかを知らないから我慢してじっと座っているのが一例である。慣れて様子が分かってくると、「エクスキューズ・ミー」と言ってちょっと立てばいいわけだが、このように行動の仕方がわからない場合にも自由がないという。

以上を要約すると、心の自由(フリーダム)と行動の自由(リバティー)の両方が備わっている人が自律の人と言うことになる。勿論言葉の壁はあるが、慣れと後で説明するがスーパービジョン(場面での対応能力)を持っていれば良いのである。

アイデンティティ(意識)を明確化する

さて、人を育てるには、心にも行動にもとらわれない自由な状態にしてあげることが大切であるが、そのためには具体的にどのようなことをしたらいいのか。それをこれから述べていきたい。

自分で自分の行動が選べる人と言うのは、自分が何者であるかという意識(アイデンティティ)がしっかりしている。アイデンティティがきちんとしていると、自らの行動を安心して選べるのである。

以前、警察関係の人にカウンセリングを教えたことがあるが、そこの研修担当の課長が昔刑事をやっていたという人だった。その人の刑事時代の話だが、「自分は柔道三段だけども、五段の泥棒を捕まえていた。道場で勝負したら、やっぱり三段は五段には負ける。しかし、犯人を逮捕する時には、「おれは刑事である」というアイデンティティがはっきりしているため、なんとしてでも俺はこの泥棒を押さえないといけないと思うから、三段でも五段の泥棒をちゃんと押さえて手錠ぐらいかけられるんだ」と言うのである。その人は気合が大事と言うのであるが、カウンセリング心理学の言葉に翻訳すれば、アイデンティティが行動の決め手になる、と言うことである。

もう一つ例を挙げよう。昔軍隊で、誰でも弾が飛んでくると怖いものである。ところが、位が上がって中隊長になると、兵隊が伏せている時でも、自分はちょっと立ちあがって望遠鏡で様子を見なければならない時がある。そのとき、「おれは中隊長だ」というアイデンティティがあるから、怖いけどちゃんと見ることができる。それを見て兵隊たちは、「今度の中隊長は勇気がある」と言うが、勇気があるのではなく、こわいけれども「自分は中隊長である」というアイデンティティがあるから、震えながらでもなすべき行動がとれるのである。
「私の教官は「勇怯(ゆうきょう)勇気・臆病の差は小なり、責任の差は大なり」と言う言葉を教えてくれたが、まさにその通りである。

行動の指定と共有

アイデンティティをはっきりさせるためには、どうすれがいいのか。もし○○会社の社員としてアイデンティティを定めさせるのなら、ある行動をさせる必要がある。

以前、友人と酒を飲んでいる時に、ある友人(医師)が、ある程度まで飲んだら「これ以上は飲まない」と言う。「どうしたんだ?」と聞きと、「おれは医者だ」と言う。その友人いわく自分の担当患者や救急の呼び出しがあった場合に、自分は医者だから、面倒を見なければならない。その時俺が酔っ払っていると処置が狂うから、俺は君たちと違って絶えずさめた目を持っていなくちゃだめなんだ」と言うのである。おそらくその友人は若い時から、医者と言うものは人と酒を飲んでも酔い潰れては駄目だ、というある種の行動規範をしているうちに、医者というアイデンティティが定まったのであろう。

このように、子どもを育てる時でも部下を育成する時でも、ある具体的な行動をきちんとしていてあげないと、自分は何者であるかという意識が定まりにくい。
さらに言うなら、アイデンティティを定めるためには、部課や会社全体など、ある集団が共通の行動をする必要があるということである。
たとえば、私が仮に伊山家の四代目の家を仕切っているとする。そして、お正月だけは伊山家の人間がみんな集まって一緒に雑煮を食べると決める。そうすると、毎年みんなが孫を連れて大勢集まってくるようになる。毎年行う恒例行事のことを「リチュアル」(繰り返される行事)というが、それを何回も繰り返しているうちに、自分は伊山家の人間であるというアイデンティティが定まる。だから家の不名誉なことをしてはいけない、という分に行動が定まりやすくなる。

会社でも、私が持っていたゼミでも、集団の共通の行動様式がある方がアイデンティティが定まりやすい。たとえば、ある会社で、「こういうやり方で部下を評価し、指導するんだ」という一つのやり方が定着した場合、それは一種のリチュアルということになる。戦後の教育は「個」を大事にする、ひとりひとりを生かすという美名のもとに、集団がまとまって行動することを全体主義・軍国主義のように思う人もあったが、私はおかしいと思う。アイデンティティを育てるためには、みんなが同じ行動様式を共有するということは非常に大事なことである。最近ではまた、日本体育大学の「集団行動」や小学生の集団五十人五十一脚などもブームになってきているようだ。

また今日では、会社人間は通用しない時代になり、会社の行事より個人の生活を重視する風潮も見られるが、会社への滅私奉公を懐疑することと会社の行事を軽んじることとは違う。人は誰でも何らかの集団に属し、自分のアイデンティティを作り上げていく。自分は日本人である、○○会社の社員である、家族の大黒柱である等々。そしてそのアイデンティティは環境によって変化していく。集団としてのアイデンティティは個人としてのアイデンティティを損なうものではなく、むしろそれを支えるものなのである。

集団に限らず、二人の人間関係でもリチュアルというのはある。結婚記念日にいつも箱根に行く夫婦にとっては、箱根に行くということがその夫婦のリチュアルである。それほど深く愛し合っていなくても、行動を共にする。それを何度も繰り返しているうちに絆が深まってくる。リチュアルにはそういう意味もある。会社の何十周年記念行事などというものにも意味があるのである。

要約すると、アイデンティティを定めるためには、行動を指定することと、共通の行動様式を共有することを心がけることである。

人間関係が苦手な人たち

今、世の中では登校拒否の子供、出社拒否の大人が多い。それは、学校や会社が嫌というよりも、厳密には人間関係を持つ能力がないから学校や会社に行くのがつらいという「人間関係拒否」の人が圧倒的に多いのである。昔の子供はちょっとくらいのいざこざがあっても、それを修復するだけの人間関係能力があったが、最近の彼等はそれが乏しい傾向にある。第一、人に会って「おはようございます」「さようなら」がきちんと言えない大人も結構いる。かつては学問の教育と躾の教育の二本立てがうまくいっていたと思うが、今はそれが不十分だから、かなり意識して決まりきった定型行動をしつける必要がある。

自分で安心して行動を選ぶためには、集団の中で自分はどうするべきかという人間関係の感覚も大切である。これが、最近の大人でもだんだん乏しくなってきたという。コンピュータの前で黙って仕事をしている時は平気だが、四、五人でチームを組んでプロジェクトをしてくれと頼まれると、急に会社に来るのが嫌になって休む人がいるという話を聞いたことがある。教育の世界で言うと、学級担任になるのは嫌がる教師が多いという。国語や数学は教えられても学級担任になると生徒や保護者と人間関係を持たなければいけないので、それが苦しいという人が今の三十代で結構いる。

大人も子供も、人間関係を不得意にするようになってしまったら自律の人でなくなる。したがって、人をしつけるということは人間関係の能力を身につけさせなければならないということになる。

いま、高校生出中途退学者が非常に多い。中途退学する人の特徴は、友人がいないということと、学校へ行っても好きな教師が一人もいないということである。勉強も学校も大嫌いだが、高校三年間を無事に過ごした人というのは、学校に行けば友人がいるのでそれが楽しみで行っていたとか、友人はいないが、いつも声をかけてくれる教師が一人はいたので、それが救いで行っていたという場合が多い。要するに人間関係を持っているかいないかというのが、私たちの人生の決め手になるということである。

自己開示能力がるかないか

そこで、一般的に人間関係を持つ能力のある人というのはどういう人か。一言で言うと、自分を開く能力(自己開示能力)のある人、ということになる。自己開示能力には三つある。一つは、いやな時は嫌、嬉しい時には嬉しいなどと自分の感情を語ることである。二つ目は、私はかくかくしかじか思うなどと自分の考えを語ること。三つ目は、自分に子供が生まれたなど、自分の事実を語ることである。

私がかつて教えていた学生が今は教員になっていて「生徒がよく『先生、何か話してよ』というが、何を話したらいいのでしょうか」と電話がかかってきた。そこで、「君が私からカウンセリングを受けた時の体験を話したらどうだ」と言うと、「そんなの恥ずかしくて言えない」と言う。「じゃ、留年した時の体験、気持でもしゃべったら」と言うと、「それも恥ずかしい」それで結局自分の好きな物理のことをしゃべるといった。物理しかしゃべれないなら、生徒がついてこられるわけがない。

では自分のことを語れる人とはどんな人かと言うと、あるがままの自分を許容している人である。たとえば、留年した自分を許せる人、カウンセリングを受けるほどノイローゼになった自分が許せている人、つまり「I am OK」と言う感覚の人が自己を語れる人である。「I am not OK」の人、自分は駄目だと思っている人は自己を語れない。

したがって、部下や学生を育てる時に大事なことは、あるがままの自分でいいんだ、要するにベストを尽くしていればいいんだと安心させてあげることである。自己嫌悪の人というのは、世の中にザ・ベストがあると思っている。しかし、私はザ・ベスト主義ではなく、マイ・ベスト主義で行けばいいと思う。マイ・ベストの人というのが、つまりアイ・アム・オーケーの人である。アイ・アム・オーケーの人が、自己を語れる人である。自己を語れる人が、人が寄ってくる人なのである。

Y.IYAMA