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■“地頭信仰”が招く誤解

確かに地頭は悪いよりは良いほうがいいでしょう。しかし地頭信仰の最大の不毛さは、問題解決の解決法は見つけられるが、問題を解決できない場合が多い。

そしてもう一つの誤解は、「考える力」もしくは「思考力」を「思考スキル」だと思っている人がいますが、思考スキルだけのことを指すわけではありません。高い思考力をもつためには、思考意欲や思考体力も必要です。しかも思考意欲や思考体力は、一朝一夕に身につくものではありません。思考力とは、MECEやロジックツリーなど思考スキルを使いこなせているかどうかではなく、考える意欲と考える体力でもあります。

世の中には、たとえさまざまな思考ツールをもっていても、考えるのがそこまで好きでないない人がいます。何を見ても深く関心を持たず、考える意欲があまりわかない人や、考えることが好きだと言いながら、考え始めるとすぐに(考えること)に飽きてしまう人もいます。
考えるという行為は、それなりにエネルギーと時間を消費します。このため思考意欲の低い人は、過去においてもあまり考えてきていません。思考ツールについて学べば、すぐにそれを使いこなせる器用な人もいます。しかしそういう人であっても、思考意欲が低く、過去に自分の周りに起こったことや、何気ない日常で見聞きしたことについて、とりたてて深く考えてきていない人がたくさんいます。

反対に思考意欲の高い人は、「そんなことを考えて、なんの役に立つのか」と思えるようなことを延々と考えています。必ずしも思考スキルが高くなくとも、考えることが大好きで、ときには一つの課題について数年がかりで考えているような人もいます。(山中伸弥教授)そのような人がこれからは必要なのです。

「頭が良い」という概念を構成する能力の要素に関しても、誤解があります。「頭の良さ」を構成する要素として、日本では多くの人が、数字の処理能力が高いこと、理解力が高いこと、物事の本質を見極める洞察力が鋭いことなどをイメージします。
確かにそれらも重要なのですが、実はこれらの要素はすべて、「現状把握や分析をするための能力」です。数字を加工して意味合いを見つけ出し、複雑な書類や様々な事実を包括的に理解して「全体として何が起こっているか」を見極めるのは、現状分析をして、問題解決プロセスの前半部分に必要となる能力です。

では、どうすればよいのでしょうか、処方箋を書く後半部分が必要です。何が悪いのか、ということだけがわかっても、解決策にはなりません。現状分析能力があっても処方箋を書く能力がないと、現状というコインを裏返しただけの解決策しかできません。たとえば、「他社製品に比べて価格が高いから売れません」(現状分析)→「ではさらにコストを削減し、原価を下げましょう」といった具合です。これは解決になっていません。

そうではなく、コストの高い日本で利益を出せるほど、高い付加価値が得られるビジネスとは、どのようなビジネスなのかという事を考え、これまでには存在しなかった、設ける仕組みを新たに設計して提示することなどが処方箋として必要になります。
そのためには、深く掘り下げるという情報分析作業とは反対方向の思考である。「今は存在しない世界」をゼロからイメージして組み上げていく思考が求められます。(仮説立案)ラジオを分解しその内部構造を理解する能力に加えて、バラバラに散った部品や材料を見ながら「これらを使って、何か価値のあるものが作れないだろうか」と考える力が必要なのです。これを構築型の能力と呼びます。「独自性があり、実現した時のインパクトが極めて大きな仮説を立てる能力」であり、「ゼロから、新しい提案の全体像を描く構想力や設計力」です。

私はこのような能力を持つ人が日本人に少ないと言っているわけではありません。日本ではこういう能力が、「頭がいい」ことをイメージさせる要素として認識されていないと言っているのです。

■これから必要な「スパイク型人材」

日本社会は平均的にレベルが高いことを重視します。優等生とは、数学も国語も社会も理科もできる人、もしくは、数的処理能力もコミュニケーション能力も洞察力も文章力も全部一定レベルの、バランス型の人材の事です。
実は、バランスが崩れていてもよいので、何かにおいて突出して高い能力をもっている人が高く評価されます。ある一点において卓越したレベルにある人を「スパイク型人材」と称し、「彼の彼女のスパイクは何か?」という視点で評価しなければなりません。

スパイク型の人材は、難局においてリーダーシップを発揮する際に、とても有利です。困難な条件下で組織を率いるリーダーはしばしば、「この難局を、何で勝負して乗り切るのか」と問われるからです。危機の時、ここぞという時に使える自分の勝負球や自分の勝ちパターンをもっていれば、それで難局を乗り切れます。

一方「なんでもそつなくこなせる」平均点の高い優等生型人材は、一定以上の難局を乗り切るための術をもっていません。

ただしスパイク型の人材は、一人で仕事をすると必ずしもうまくいきません。あれこれとたりない能力が存在するからです。しかしチームで成果を出せばよいのなら、それらの点については他のメンバーが補えばよいのです。経営者の場合も、誰にも負けない切り札をもってさえいれば、自分の至らないほかの部分については、有能な部下を雇えばよいだけです。しかし日本社会では、スパイク型の人材はあまり高く評価されません。これからは、必ず評価されています。

■問題解決に不可欠なリーダーシップ

今世界で求められている人材を一言で表現するとすれば、問題解決スキルではなくリーダーシップなのです。

家の外にまで溢れる大量のごみを溜め込む迷惑な隣人が現れた時、その問題を解決するのに何が必要か、想像してみてください。紙と鉛筆を用意して、解決方法を考えることは可能でしょう。しかし、たとえ完璧な解決方策を紙の上に書きだすことができても、問題は何一つ進展しません。問題を解決するには、それらの言語化された解決策のステップをひとつずつ行動に移していく必要があります。その時に必要なのがリーダーシップです。

どんな場合でも、他者を巻き込んで現状を変えていこうと思えば、必ずリーダーシップが必要になります。世の中には「どうすればいいのか、みんな分かっているが、誰も何もやろうとしないために、解決できないままで放置されている問題」が溢れています。

反対に、「答えさえ分かればすぐに解決できるのだが、その答えが見えない」のは、技術的な問題など、人や組織が絡まない問題だけです。自分の言動を変えるのは自分一人でできるけど、自分以外の人の言動は、リーダーシップ無くしては変えられないのです。

最近は学校での“いじめ”や“体罰”が大きな問題になっていますが、ここでも、それらをやめさせようと思うと、学校の中に強力なリーダーシップが必要となります。教師であれ、それを見ていた子供であれ、子供から話を聞いた親であれ、誰かに強力なリーダーシップがないと、問題解決できません。そんなところでMECEだのロジックツリーだのと言っていても、なんの役にも立たないでしょう。

何であれ特定の分野に強い問題意識をもてば、人はどうすればそれを解決できうかと、真剣に考え始めます。昨今の問題解決スキルに対する関心の高まりは、そういった気持を多くの人が感じていることの証左ともいえます。

しかしここで理解すべきは、問題解決するために必要なものが問題解決スキルというよりは、リーダーシップだということです。子供が算数の問題を解くときのように、問題を見ながら答えをノートに書いていくのであれば、必要とされるのは問題解決スキルでしょう。しかし大人が直面する問題は、“教科書の問い”ではありません。

■リーダーシップは全員に必要

外資系の多くの企業では、すべての社員に高いレベルのリーダーシップを求めます。アメリカの場合は、大学や大学院の入学判定に使われる小論文でも、過去のリーダーシップ体験は常に問われる需要項目です。
一方日本ではまだ、リーダーシップについて問われる機会はごくまれで、中には30歳前後になっても「今までに、一度も問われたことがない」という人さえいます。なので、その概念自体がよく理解されていません。

日本人の多くは、「リーダーは、一つの組織に一人か二人いればいいもの」と考えています。そのほかの人はあまり強い主張をせず、リーダーが多すぎると「船頭多くして船山に登る」ということわざに象徴されるようなトラブルが発生すると懸念する人もいます。
このため、「組織においてはごく一部の人がリーダーシップをもっていればいいのに、なぜ外資系企業や欧米の大学では、採用面接や大学入試において、全員にリーダーシップをもとめるのか」と不思議がられるのです。同様の趣旨で、「メンバー全員が強いリーダーシップを持っていたら、チーム全体としてはうまく動かないのではないか」といった質問もよく聞かれます。

この質問に対する答えは極めてシンプルです。全員がリーダーシップを持つ組織は、一部の人だけがリーダーシップをもつ組織より、圧倒的に高い成果を出しやすいのです。だから学校も企業も、欧米では(もしくは外資系企業では)全員にリーダーシップ体験を求めるのです。

そもそも「船頭多くして船山に上る」ということわざにおける船頭を、リーダーだと解釈するのは明らかに間違っています。ここでの船頭とは、ただ単に「自分の主張を押し通そうとする強引な人」であり、確かにそんな人が多ければチームの成果は出ないでしょう。船の目的は海にこぎ出し、魚をとること、もしくは目的地までたどり着くことです。もし彼らがリーダーシップをもっていれば、たとえさまざまに異なる自説をもった人がいても、それらの意見は、「成果達成のために、どの意見が最も役に立つだろうか」という話し合いの中で取捨選択されるはずです。リーダーシップのある人は、「成果を出すこと」を「自説が採用されること」よりも優先します。だから全員にリーダーシップがあれば、船は山に登らず、海に向かうはずなのです。
ことわざの船頭は、リーダーではなく、単なる頑固でわがままな人です。このことわざは、「自分の意見を通すことだけにこだわる人が多ければ、組織としての成果は出せない」という、当たり前のことを示しているにすぎません。

本来のリーダーとは、それとは180度異なり、「チームの使命を達するために、必要なことをやる人」です。プロジェクトリーダーである自分の意見より、ずっと若いメンバー意見が正しいと考えれば、すぐに自分の意見を捨て、その若者の意見をチームの結論として採用するのがリーダーです。
さらに、「そんな若造の意見を採用するなんて!」と不満をもつメンバーを納得させ、チームをまとめていくのがリーダーシップです。こう考えてみると、チーム内にリーダーが複数いることは決してマイナスではありません。むしろ全メンバーがリーダーとしての自覚をもって活躍するチームは、「一人がリーダー、その他はみんなフォロアー」というチームより、明らかに高い成果を出すことができます。

■リーダーがなすべき4つのタスク

その1:目標を掲げる

まずリーダーに求められるのは、チームが目指すべき目標を設定することです。そして、その目標は、メンバーを十分に鼓舞できるものである必生があります。その目標は、すなわちゴール(到達点)をわかりやすい言葉で定義し、メンバー全員に理解できる形にしたうえで見せる(共有する)のが、リーダーの役目です。

マラソンでも行軍でも、人はゴールがどこにあるか、いつ頃到達できるかが理解できているからこそ、歩み続けることができます。どこに向かっているのかも、いつ終わるのかもわかず、「俺がいいと言うまで何日でも歩き続けろ」と言われて、ひたすら歩き続けるモチベーションを保てる人はいません。「とにかく売上げを上げろ、できるだけ利益を上げろ」と連呼するのはそれと同じです。これでは社員はエンドレスの努力を求められていると感じ、達成感も高揚感も得られないまま疲弊してしまいます。

一方で、「この技術で世の中を変える!」とか「5年後にこの業界で世界のトップ3になる!」という言葉は、社員たちが向かうべきゴールが何であるかを明確に示しています。
人間はみんな合理的です(打算的と呼んでもよいでしょう)。求められる努力と、結果として得られるものがバランスしていないと感じれば、努力をしなくなります。だから行く道が厳しければ厳しいほど、「そこに到達してみたい」と感じさせることが必要なのです。

カリスマ経営者の多くが、他の人から見れば無謀で、行き過ぎで、あり得ないほど高い目標を口にするのはそのためです。彼らは能力も意欲レベルも異なる人が混在する巨大な組織を率いています。突拍子もないくらい高い目標を掲げなければ、何百人もの社員を動機づけ、走らせ続けることはできません。行く道が険しいとわかっているからこそ、高い目標を掲げるのです。
こういった企業の社員はよく、「うちの社長はいつもむちゃくちゃ高い所に目標を設定する。そのせいで組織が混乱して困る」と愚痴をこぼしますが、それはリーダーの重要な役割です。愚痴を言っている人たちも、自分がリーダーになった時には、高い目標を設定することの意欲を理解するでしょう。

経営者の中には、「自分はカリスマタイプではないから」、「派手なパフォーマンスはすきではない」などの理由で、組織を鼓舞する目標を設定しようとしない人がいます。
確かに世の中には生まれつきカリスマ性に溢れている人もいますが、大半の人はそんなものは持っていません。それでも組織のメンバーを奮い立たせる目標を設定することは、リーダーの重要な仕事の一つであり、自分の性格に合わないからやらなくてもよい、という類のものではありません。このことをよく理解している経営者は、たとえ自分に生まれながらのカリスマ性が備わっていなくても、努力と工夫によって「みんなを奮い立たせるゴールを提示しよう」と考えます。
そもそも、簡単に達成できる成果目標しかいないのであれば、その集団は最初からリーダーを必要としません。

課長や部長など組織の役職に就いていると、組織上部から目標が与えられることがよくあります。リーダーシップのある人はこういった場合でも、フォロアーを動機づけるため、その目標を自分なりの言葉に言い換えます。もしくは、与えられた目標とは別に、より高いゴールを設定することもあります。管理職としては、組織から与えられた業務目標をそのまま部下に伝えれば任務完了かもしれませんが、リーダーにとってはそうではありません。

面接で、過去にその人がどんなゴールを設定したことがあるか、と尋ねることがあります。一度でも自分で目標設定をしたことがあるかどうか、それは十分に高い目標であるか、換言すれば、高い目標設定することの意味を理解しているかどうかを聞き出そうとするのです。「変化に対応する力のある人」を求めるという言い方がありますが、リーダーシップ・ポテンシャルの高い人を求めるという趣旨からいえば、変化への対応力が高い人ではなく、むしろ、「変化を起こす力のある人」が求められます。変わっていく社会に対応する力をもつ人ではなく、組織なりを自ら変えられる人という意味です。

その2:先頭を走る

マラソンには「先頭集団(グループ)」という概念があります。レース終盤には先頭グループから抜け出した数名がデッドヒートを繰り広げますが、中盤までは、優勝を狙う選手も先頭グループの中にとどまります。
この「先頭グループを率いる、先頭ランナー」は時には、ペースメーカーとして雇われている場合があります。ペースメーカーの使命は自らの優勝ではなく、ある程度の地点まで速いペースを維持して走ることにより、先頭グループ全体の記録を伸ばすことです。
このことからは「先頭を走ることの負担の大きさ」が理解できます。反対にいえば人の後をついていく、誰かの背中を見ながら走ることは、相対的に非常に楽なことなのです。

「最初の一人になる」、「先頭に立つ」これを厭わないのがリーダーです。集団の前で何か新しいアイデアが披露され、「誰かこれにトライしてみたい人はいますか?」と問われた時に、周りの様子をうかがうのではなく、すっと自分の手を挙げて。「私がやりましょう」と声を上げるのがリーダーです。

その3:決める

リーダーとは「決める人」です。検討する人でも考える人でも分析する人でもありません。もちろん、高い分析力や思考力をもっていることは、よりよい決断をするために役立つでしょう。しかし世の中には、高い分析力や思考力をもっていても、何も決められない人がたくさんいます。決めることをできる限り先延ばしし、「情報が足りないから決められない」と言って、とめどなく検討や会議を続ける人がいるのです。こういった人には、リーダーシップはありません。

リーダーとは、たとえ十分な情報が揃っていなくても、たとえ十分な検討を行う時間が足りなくても、決めるべき時には決めることが大切です。議論を打ち切り、決断すべきタイミングはどの時点なのか、判断できる人です。欧米の組織と(されに言えば中国や韓国の企業と比べても)日本の組織の決断が遅いと言われるのは、この点におけるリーダーシップの差が表れているのだと思います。

当然ですが、情報が完全に揃っていない段階で決断することには、リスクが伴います。このリスクを取るのがリーダーの役目なのですが、日本では時に、「リスクを人ではなく場所に負わせる」というびっくりするような手法が使われています。たとえば、「それはどこで決まったのか」という問いと、「○○会議で決まった」という回答があり得ることには、日本における「決める」という行為の特殊性をよく表しています。

決めることができないのは責任を取るのが怖いからでしょう。決断を下す人には、常に結果責任が問われます。それが怖い人はいつまでも決断を引き延ばします。そして彼らが決断をしない理由(言い訳)もいつも同じです。それは、「十分な検討時間がなかった」と、「必要な情報が揃っていない」の二つです。

しかし過去の事ならともかく、未来の事に関して十分な情報が揃うことはありません。リーダーの役目は過去の情報を整理してまとめることではなく、未来に向けて決断することですから、常に不十分な情報しか存在しない中で、決断することを求められます。

さらに言えば、十分な情報が揃っているのなら、リーダーでなくても決断はできます。
あるアメリカ企業の経営者が会議の席上で「A bad decision is better than no decision」と発言しました。(悪い決断でも、決断のないことよりは良い)

なぜベストな決断でなくても、決めることが重要なのか。ひとつの理由は、何かを決断すると、問題を浮かび上がらせることができるからです。リーダー経験のない人たちは、問題が起こるとすぐに「決断が間違っていたのではないか」、「もっと慎重に検討すべきだった」などとそしり、時には一度決断した事を撤回すべきだとさえ言いだします。なんとかして、結果責任につながる「決める」という行為を避けたがるのです。

しかしリーダーが決断する時は、「これで万事うまくいく」という結論が出た段階ではありません。問題は山積みだが、今が決断して前へ進むべきタイミングであると考えて、決断するのです。したがって、決断の後に問題が噴出するのは想定内です。
むしろ問題を明らかにし、何を改善すべきかを浮き彫りにするために決断する事さえあります。問題点が洗い出せれば、一歩前へ進む事ができます。何かにつけても「やっぱり拙速だった。もっと議論してから決めるべきだった」と言っている人にも、リーダーシップ・ポテンシャルはありません。

ケーススタディーの中でも、とめどなく情報を求めてくる人がいます。情報ばかり求めていて、いつまでも自分の意見を言わないのです。「あなたはどうすべきだと思いますか?」と聞くと、「もっとよく調べます。」と答えるのです。

ところで、全員がリーダーシップをもっているチームでは、最終的な判断を下すのはオフィシャルなリーダーであったとしても、議論の段階では全メンバーが「自分がその立場であったら」という前提で議論をします。このため各メンバーはリーダーに対して、「ここがおかしいのでは」とか「ここを変えてください」と言った、意思決定者への陳情(要請)のような意見の述べ方はなく、「私がもしリーダーであれば、こういう決断をします」というスタンスで意見を述べます。

その4:伝える

もうひとつ、リーダーの大切な仕事が、コミュニケーションです。明示的という意味で言葉は重要です。家族など極めて近しい小人数だけを率いているのなら、言葉ではなく態度で示すなり、背中で教えることも可能でしょう。しかし一定人数以上の組織を率いる場合や、多様な価値観を持つ人が混在している場合、また、成果を出すことがきわめて困難な状況では、言葉によって人を動かすことが必須となります。黙っていても伝わるとか、わかってくれているはず、は通用しません。問題が発生した場合も、問題の原因や対処方法の選択、さらに、その中からなぜこの案を選んだのかという判断の根拠も、言葉で説明する必要があります。これが説明責任(アカウンタビリティ)と呼ばれるものです。

日本の組織や企業は、長い間、極めて同質的な人だけで構成されていたため、説明責任や言葉の力を軽視しがちです。今は日本人以外の人、仕事に対する考え方が異なる人も一つの組織に混在しています。そういった人々を束ね、高い目標に向かって進ませるには、なぜそれが必要なのか、他にどんな選択肢があったのか、などについて、論理的かつ明示的に伝える必要があります。

アメリカの社会には、「まったく同じ人間が二人いるなら、どちらか一方は不要だ」と言われます。同じものを見たときに、常に同じことしか考えないのであれば、ひとつのチームにその人が二人存在意義はありません。同じものを見ても、時には異なることを感じるからこそ、それぞれの存在価値があるのです。