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自主性・自発性を尊重すべきである!か?

私は授業を始める時「起立!正対」とやるのが常である。ところがまれにしぶしぶ立ち上がる生徒がいる。私を権威主義者、管理主義者と思うらしい。ささやかな抵抗である。
この間もあるセミナーのとき、私が学生に~させるという表現をよくするが、あれは権威主義であり、やがてはまた軍事主義に通じると詰問した参加者がいた。

戦後の教育制度は児童中心とか来談者中心と言う美名のもとに、禁止・命令を何か良くないもののように思った。こどもの自主性・自発性を尊重させようというのである。私に言わせると、こういう教育を受けた子供たちが今では40歳前後の中堅社員や教師となり、しまりのない教育をしているのである。
子どもに自由を!をモットーにしたサマーヒル学園でも禁止・命令・指示はきちんとしているのである。全ての教育は社会化である。現実原則の学習である。つまり、遅刻するな、敬語をつかえ、期限までに商品を収めよ、定刻に試験場に出頭せよ、借金は返せ、病欠のとき勤務先に報告せよ、という具合にきちんとしつけをすることが教育である。

どうぞお気に召すままに!というセリフは心理療法の世界のことであって、学校や企業社会生活一般では通用しないセリフである。にもかかわらず、教育や研修の場で受講生尊重という美名のもとに、何も注意しない講師がいる。
これは禁止・命令するだけの見識がないか、見識はあっても自己主張するだけの自我の強さがないか、禁止・命令をすることを抑圧・抑制する心的機制が働いているか、禁止・命令しない方が自主性・自発性が育つと信じているからである。
理由はともかく、学習者に禁止・命令しない教師がいたら、それは怠慢な教師である。

禁止・命令を必要とするときは、ためらうことなかれ。これが結論である。

なぜ禁止・命令か・・・社会化

こどもの自主性・自発性を尊重する人は受け身的な教育態度になる。非審判的・許容的雰囲気に人を置いておけば、放っておいても人間は成長する、という考えが戦後の日本の教育を支配した。
私の見るところ、放っておいても自発的に老人に席を譲る少年にはならない。席を譲るのはどこかでそういう行為が善であると教わったからである。あるいは、放っておいても自発的に親孝行するものではない。親孝行な人は、親孝行は善である、とどこかで教わったからである。

すなわち人間の態度(偏見)、価値観(信仰)、感情(義憤)、行為(野球)、思考(解釈)はいずれも後天的な学習の結果である。何の刺激もなく放置しておけば、自然と野球選手になったり、心理カウンセラーになったりするわけではない。
教師や親は絶えず禁止・命令・教示をしないことには生徒や子供を一人前にすることはできない。一人前になるとは世の中の禁止・命令を身につけることである。そのプロセスを社会化という。ところが受容とか共感的理解とかという美名のもとに、ニコニコしているだけでは、わがまま者、世間知らず、非常識の人間に育て上げる率が高い。社会化はできない。
幼少期からわがままいっぱいに育った子供に禁止・命令・教示をヒルかえすと、ますますわがままいっぱいになる。あるいは非行者に心行くまで非行させているうちに非行が治ったという話は聞いたことがない。

なぜ禁止・命令か・・・タテ関係

禁止・命令・教示すべきでないという考え方を検証する第二の観点は、組織心理学の立場である。どんな集団(学校・企業)でも役割はタテに並んでいる。権限の大なるものから小なるものへ、責任の大なるものから小なるものへ、といった順番に、タテに並ぶのが組織の常識である。全ての役割がヨコに並び、全員が「私」「あなた」と同好会気分になってしまうと組織の活性化は妨げられる。

役割がタテに並んでいるということは、誰は誰に禁止・命令・教示する権限と責任を有しているか、誰は誰に対して中間報告する義務(責任)があるかが周知徹底しているということである。禁止・命令・教示をしない野球監督のチームが春や夏の甲子園に出場することは皆無といってよい。

昭和40年代の大学紛争時、タテ関係になじまない教授会は何回会議を開いても、誰が誰に何を命令するのか、誰が誰にきちんと経過報告をするべきなのか、それがはっきりしていないので問題は解決できなかった。人間としてはヨコの関係でも、役割としてはタテの関係。これを是認するのが組織人の常識である。タテ関係ということは禁止・命令・教示をする権限と責任を誰が誰に対して有しているかが自明ということである。

禁止・命令してよい時、わるい時

ところで教師と学生の役割関係もタテである。ということは教師は学生に禁止・命令・教示をする権限と責任があるということである。では教師は権威主義者か。そうである時とそうでない時がある。

授業時間時に「出席が7割以下のものはレポート提出の資格を与えない」と宣言し、意義があるものは申し出なさい、と付け加え、全員の学生が納得した場合には、契約が成立したと解される。それゆえ、これは権威主義とは言わない。ところが何の契約もせず、学期末試験の直前にいきなり「出席率7割以下のもの・・・」と一方的に押し付ける場合、これを権威主義という。権威主義を定義すれば、すべての禁止・命令・教示が権威主義に起因していると解釈するのは間違った思考である。

では、教師、親、上司が禁止・命令・教示をせず放っておいても生徒や部下が成長するのはどういうときか。

  • モチベーションが高いとき。(興味か必要性の何れかがあるとき)
  • 予備知識があるとき。
  • ミドル・マネジメント(例-班長)が育っているとき。
  • 伝統・習慣・集団規範がさだまっているとき。つまりその組織がある程度の歴史を有しているとき
  • 教育機能と凝集力がその集団にあるとき。人は仲間から影響を受ける。
  • 生徒や部下にある程度の能力があるとき。

Y.IYAMA