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信頼を得る!「自己紹介」の方法

つながりで自己を語れ!

仕事で、「自分は何者か?」
初対面の人に説明しなければならないシーンがある。

とかく自己表現がニガテな日本人である我々は、自己紹介を嫌がり、適当にすましてしまうのだが、自己紹介は、
初対面の人との関係のはじまりに撒く「種」のような言葉だ。

種まきの機会を逃してはいけない。

ささやかでも自分を伝える工夫をしつづけていれば、「相手の印象に残る」「新人でも、“若僧”と軽んじられない応対をしてもらえる」「自分らしさが伝わる」など実りがある。

きょうは、ここぞというシーンで、信頼を得る!自己紹介の方法をつかもう。

新人のこんな声を聞くことがある。

「どこへ行っても、何を言っても、“若僧のくせに……”という扱いを受ける。
これでもけっこう、しっかりしているのに、わかってもらえない……。」

新人は、若く、貫禄のない「見た目」のせいで、損することも多い。

「自分以下に見られる人」

新人とはいえ、その分野の知識がすごかったり、学生時代に仕事経験があったりして、実は内面が、そうとうしっかりした人も多いのだが、話してみるまで、見た目ではいっこうにわからない。
つまり、伝えなければ伝わらない。

自分の内面を知ってもらう絶好の機会が「自己紹介」だ。

しかし、日本人の自己紹介の実情は、ほんとうにひどい有様だ。

それは、ひと言で言って、「顔がない」。

アメリカで学生時代を過ごした、もどってきて友人が、「なぜ、みんな同じ自己紹介をしているのか!?」と衝撃を受けていた。
友人が学生時代を過ごした所では、短い自己紹介ひとつにも、よりクリエイティブなものが好まれ、求められたという。

日本では、最初の人が趣味を言ったら、次の人も、次の人も「趣味」、最初の人は特技を言ったら、次の人も、次の人も「特技」、みな同じパターンで自己を語って、顔がない。

中には、公然と「私は自己紹介がきらいです」と言ってはばからない人もいる。本人はすこし毛色のちがう表現をしたつもりだろうが、その実、伝わっているのは幼さだ。

日本人はなぜ自己紹介をいやがるのだろう?

日本人が悪いわけでもない、潜在力がないわけでもない。

訓練がないからだ。

自分のことを語れと言われたら、だれでも切実で、「人に自分のことを誤解なくわかってほしい」という心が働く。

一方で、自己表現のトレーニングをまったく受けてきていないから、同時に、「こんな場で短い言葉で何か言わされて、自分の何がわかるのか」という心も働く。

「わかってほしい」と「わかるものか」がせめぎあい、もう自己紹介そのものがおっくうになり、なげやりにしてしまう。

だが、聞く人は、あなたの言葉を通して、あなたの内面を推し量る。

自己紹介はアイデンティティに関わる問題なのだ。

どうしたら、時間的にも、話す内容にも制約ある、ビジネスシーンで、「自分らしさ」が伝わり、かつ、その後の仕事のパートナーとして信頼を得る自己紹介ができるのだろうか?

まず、日ごろやっている自己紹介をチェックしてみよう。

「このたび、上野から引継ぎ、この仕事を担当させていただくことになりました、東都出版、第一編集部の新田と申します。
どうぞよろしくおねがいします。」

「社名」と「名字」、だいたいこれで済ませている人が多いのではないだろうか。
これでこと足りるのなら、悪いわけではいが、これでは、信頼はおろか、相手の印象にまったく残らない。

それに、先輩の仕事を引き継ぐことになって、顔合わせをかねて先方と会食をする場合など、やはり、自分について、なにも語らないというわけにもいかないだろう。
先方だって、「今度担当になった人がどんな人なのか」一抹の不安がある。
先方だって、仕事のシーンでことさら自己主張されてもこまるが、少しは担当の人物について知りたいはずだ。

そこで、「社名」と「名字」に加えて、あと何を言ったらいいのかで、多くの人は悩む。
それで、たとえば、こんな風にする人がいる。

「このたび、上野から引継ぎ、この仕事を担当させていただくことになりました、東都出版、第一編集部の新田一人と申します。
趣味はサーフィンです。
どうぞよろしくおねがいします。」

「東都出版、第一編集部の新田一人と申します。
高校のときは、陸上でインターハイに出場経験もあります。どうぞよろしくおねがいします。」

趣味や特技などをひと言添える人がいる。
「仕事と関係ない」「唐突な印象を受ける」と否定してしまうのはカンタンだが、私は、何も言わないで、記憶の彼方に忘れ去られてしまうよりはいいのではないかと思う。

「サーフィン」「陸上」などの「のりしろ」を与えることで、相手がもし、これらに興味があれば会話もはずむかもしれない。
けれども2つ注意することがある。

ひとつには、「過去の栄光」で自分を語った場合、「いまどうなのか」は聞く人が次に気になることだ。
「いま陸上はやっているのですか」と聞かれ、「いや、いまはもうやっていないんですよ」と言えば、それで会話が済んでしまう。
「過去の栄光」は、いまとつながりがない場合、結局、ひとしきり昔話をして終わってしまう。

もう一つ、仕事と関係ない趣味や特技で自分を語り、それで会話がはずんだとしても、相手は、自分という人物に「親しみ」を感じただけであって、(それも大切なことではあるが)、仕事のパートナーとして「信頼」を得たわけではないということだ。

初対面でも信頼されるのはどんな人だろう?

逆を考えるとわかりやすい。こんな人がいたらどうだろう?

「昨日の私は、今日の私ではない。明日の私は、今日の私ではない」

では、あなたはどうなってしまうのだろう?どのあなたを信頼したらいいのだろう?
と聞く人は不安になる。

つまり「連続性」だ。

連続性がまったく感じられないと、人は、その人物に不安を感じるし、逆に、なにか連続性が感じられると、安心感を持ち、一貫していると信頼感を持つ。つまり、

「過去、現在、未来のつながりをもって自己を語る」

これができれば、初対面でも信頼される可能性大だ。

先ほどあげた「過去の栄光」を語っても、現在や未来とつながりがあれば大丈夫だ。例えば、

「体力がものを言う出版業界ですが、陸上で培った体力には自信があります。まかせてください」とか、
「将来は、スポーツの素晴らしさを広める出版に携わりたいと思います」などと、
連続性をもって語れれば唐突な印象はなくなる。

「現在の自分の仕事」を起点にして、
1.自分は過去のどのような経験や想いから、現在の仕事に就いたのか。
2.現在、何を想い、どんな仕事をしているか。
3.将来、仕事を通して何を目指すのか。

これで自分を語ってみる。
例えば、こうだ。

このたび、上野から引継ぎ、この仕事を担当させていただくことになりました、東都出版、第一編集部の新田一人と申します。

私は、小さいころから「人が育つ」匂いのするところが好きで、「教育」に関心があり、ずっと教師になりたいと思っていました。
しかし、決められた正解を教えるより、もっと自由な教育の場があるのではないかと思い、最終的に、出版の仕事を選びました。(過去)

読者の潜在力を生かすような本がつくれたら、と新人ながら、いま、がんばっております。(現在)

将来は、出版を通して、“人が育つ”支援をしていけたらと思っています。(未来)

どうぞ、よろしくおねがいします。

自分は、意にそわぬ配属で、このような一貫性がない、という人も、最終的に自分で選んだ進路であれば、過去、現在、未来に、なんらかのつながりは見出せる。
例えば、

私は医療機器の開発に携わりたいと大学院で、ずっと研究をつづけてきました。(過去)

現在、営業として、医療現場をまわっておりますが、研究者の思いと、医療現場のニーズとに、大きなギャップがあることを日増しに実感しております。(現在)

将来は、医療現場と研究者の架け橋になれるような仕事を目指しています。(未来)

「過去」は、その人の歴史であり、背景だ。
「未来」は、その人のベクトルであり、志だ。

人は、根なしぐさのような、ルーツもなく、行き先もない存在に、不安を抱き、つい軽んじてしまう傾向がある。

だから、短い自己紹介でも、「過去、現在、未来」を関係づけて語ることで、聞く人は、あなたにも、歴史があり、背景があり、未来に向けた意志がある、
決して軽んじてはいけない、信頼に足る存在である、という印象を持つ。
あなたの存在が立体的に浮かび上がるというわけだ。「過去、現在、未来」の主旋律を通せば、あとはアレンジ自由だ。

時間がなくて、「過去、現在、未来」を脈絡をもって語れないときは、少なくとも、「未来に向かった意志」だけは言っておく、例えば、

東都出版の新田と申します。
出版を通して、“人が育つ”のを支援していきたいと思っています。よろしくおねがいします!

「未来に向かった意志」で自分を語るだけでも、前向きな印象を残せる。

ポイントは「勇気を出す」ことだ。

自己表現にはとかく勇気が要るものだ。
大きな勇気は出なくていい。でも、短い自己紹介ひとつにも、短い自己紹介ひとつ分の勇気が要る。

いまの自分から、もう一歩だけ勇気を出して、初めての人に、自分の主旋律を伝え、出逢いをものにしていこう!